( ´ー`)y-~~おいすー
アメリカの大学への入学は易しく、卒業は難しい。
どこかで聞いたそんな固定概念はここ数年で崩れ去っている。
実際、自分は2回浪人して本大学に入学したが、入学してからも卒業するために単位を取得するために努力し続けなければならない現状がある。
そこへきて、アメリカの入試制度SATについて知り、アメリカの上位大学への入学も難しいものであると知って、感じたことを述べる。
まず、その歴史に見られるものとして、上流階級の子供のみがエリート校へ入学していたのを打破するために、知力のみで公平を期して選抜を行いはじめたはずが、
結局は資金を駆使して予備校に通った裕福層の子供が良い点をとって合格しているという実態である。
私の考えとしては、その実態が悪いとは決して思わない。
なぜなら、当初は頭の決して良くない裕福層の子供だけがエリート校に入学していたのだから、裕福でない者にも入学の機会が与えられたことができただけでも良いと考える。
国の指導者を育てるのがそういった上位大学の役目であるのならば、それは裕福層出身者がやろうがそうでない者がやろうがまず関係はないと考える。
確かに、農民育ちでなければ本当に農民の気持ちになった政策はできないなどと言われるが、それ以前に政治を理解できないと話しにならない。
よって、人種や性別による優遇措置などはナンセンスであり、一人の人間として平等に機会が与えられるべきである。
つまり、同じ点数の白人と黒人がいた時、黒人をとるということは、白人の機会を奪っているということになり、ある意味では人種差別をしていると考えるのである。
同じ結果を出すのに努力の過程が問われるというのはおかしい話である。
努力は努力、結果は結果、どんなに努力をしても、結果が伴わなければ意味が無い。
また、私が一番引っかかったのは、試験に落ちた学生が抗議を申し立てたところ、その抗議が通って1か月後に入学が許可されたという事例である。
厳正なる試験において、ごねが通りうるというのはいかがなものか。
ごねなかった者は損をすることになる。そんな入試試験に価値があるのだろうか。
確かに、クラブ活動やボランティア活動をしてきたものが知力に勝る力を持っていることは否めない。
しかし、それらは+αの部分であり、大学で学問を学ぶ上ではやはり基礎学力がないと厳しいと考える。
基礎学力のない者を入学させても、授業についていけなければその者のためにはならない。
さらには、クラブ活動はなんのためにやっているのか、楽しむためにやっているのか、体力をつけるためにやっているのか、リーダーシップを経験するためにやっているのか。
ボランティア活動はなんのためにやっているのか、アピール材料としてやっているのか、純粋な慈善心からやっているのか、ただ何となくやっているのか。
その気持ちの部分はいくら文章にしたところで本心は見えないのである。
といっても、人間性を見るのは重要であるとも考える。
成績優秀だけが取り柄で、他人とまともにコミュニケーションをとれない者は問題がある。
そういった者を落とすためにも面接選考は設けるべきである。
徹底的に情をはさみたくないのであればパソコンに決めさせればよい。
人を選ぶのは結局「情」の部分であると考える。
現実には何万人も受験生がいるので、一人ひとり面接を行うことは困難に等しいが、
多くの就職過程などで行われているように、試験での一次選考、書類での二次選考、面接での三次選考というものを段階的に設けたほうが、より入学にふさわしい人物の採用へと繋がるのではないだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿