2012/01/22

ユースカルチャーの社会学


( ´ー`)y-~~おいすー

逸脱行動と社会学という講義でユースカルチャーの社会学という書籍について読んでまとめってこいってレポートが出たので書いてみた。

最近話題のステマ?違いますね、でも面白い本なんで読んでみてもいいかも。僕は友だちに借りたけど

こういう思想系の講義だと他人のレポートとか読んでみたいな。

周りの大学生がどれだけ自分なりの倫理観・哲学を持って生活してんのかって気になったり。

まあ僕みたいに大したこと考えてない奴が多いやろうけどね!のらりくらりといきましょー





第5章「良いこと」の強要・教育について
<高校での奉仕活動の義務化>
僕は高校時代、「清掃ボランティアに参加すると大学推薦入試に有利である」などという話があったので試しに参加したことがる。近くの道路の清掃活動をしてジュースをもらったのだが、結局出席名簿には署名せずに帰った。つまり、僕はボランティアをしたが、記録上ではしていないことにしたのだ。
月日は流れ、昨年起こった東日本大震災の復興支援について、多くの大学が「ボランティアに参加した学生に単位を出す。」といったことを実施した。これについては鼻から参加しなかったのだが、これらを踏まえて感じたことがある。
「自分が得をするためにボランティアをするようなことがあっていいのか?」甚だ疑問を感じる。もちろん気持ちの伴っていない奉仕活動が全く意味を成さないわけではない。瓦礫撤去作業等ならどんな人間であれ人手が必要である。しかし、被災者と接するようなとき、気持ちが伴っていないとそこに軋轢が生じる。事実、邪魔にしかならないようなボランティア参加者もいたと聞く。偽善心であれボランティアに参加して行動することは何もしないよりはいいことだと思うが、ボランティアを受ける人の気持ちをさらに傷付けるようなことはあってはならない。

第9章名前の呼び方について
<名前の呼び方の多様性>
僕は日頃、「名前にさん付け」で呼ばれることが多い。高校時代から、同い年であってもさん付けで呼ばれていたが、浪人して大学に入ってからもさん付けで親しみを持って呼ばれる。これらは、女性ともとれる名前であることが大きな理由にあると思っているが、大人びたキャラであることからなのかもしれないとも勝手に思っている。そして他には、「名前を呼び捨てする人」と「苗字で呼ぶ人」がいる。
名前を呼び捨てする人の多くは、僕と深く関わっていないが親近感を持ちたいと思っている人に多い。僕としてはかなりの違和感があり、上から物を言われている感じもして、壁を感じる。得てして、そういった人達は僕の人間性を理解していないことが多く、衝突を免れないことが多い。
苗字で呼ぶ人については、一歩引いて客観的に僕を見ている人であることが多い。決して他人行儀なのではなく、良く知った上で礼儀正しく接してくれている人である。
<名前の呼び方と人間関係>
僕の他人の呼び方を例に挙げて述べる。
大体は初めて会った時からの流れで「さん」をつける。すごく親しい関係になると、さんをとっぱらったあだ名をつける。立場の違いがあるときには当然、先生や先輩等の敬称をつけるが、敬称をつけたからといって必ずしも敬っているわけではないし、あだ名をつけた人の中にも尊敬している人は多い。年上だからといって目上ではないし、先に生まれたからといって必ずしも尊敬するといったこともない。
また、三人称として人を指す時に、相手も知っている人であれば「あの子」、知らない人であれば「大きいお友達」ということが多い。あの子と言って子供扱いするのは、その場にいない人の話をするのはとても失礼になる場合が多く、やんわりしたイメージを抱かせるためであり、大きいお友達と言うのは誰とでもとれるような、これもまたやんわりしたイメージをもたせるためである。
<人を呼び捨てにすることについて>
僕は今、塾講師のアルバイトをしているが、その中での生徒の呼び方についての指導を例としてあげる。基本は苗字を呼び捨てにする。これは、生徒に対して威圧感を与えるためであり、威圧感がなければ生徒は真面目に宿題をやってこず、教えたことをろくに覚えようともしない、俗に言う舐められた状態になってしまうからである。先生は決して生徒の友達では無いことを意識付けるためでもある。しかし、距離を縮める必要があるのも事実で、時折名前で読んでコミュニケーションを取るのも普段の授業を円滑に進めていく上で大事だと指導されたし、そうであるとも感じた。ただ、僕は例え相手が年下であっても気を使う人間であるので呼び捨てにするのは難しく、その辺の意識改革を進めていかなければならないと感じている。

第12章インターネットとユースカルチャー
僕らはデジタルネイティブ世代である。物心つく頃にはインターネットが周りに現れ、メールに始まるWebコミュニケーションも自然と行なわれてきた。そういった観点からこの章について述べていく。
<インターネットと大学生活>
SNSの普及により、授業関連の話題をネット上で見かけることも多くなった。講義の情報が流れてくるのは良いと思う反面、Twitterでネットリテラシーが守られずに問題になる事例は枚挙に暇がない。また、そういった事例に群がる者も居るので、容易に拡散される事態が起こりうる。僕は傍観者なので直接的にも間接的にも関わることはないが、そういったものがノイズでしかなく、有益な情報を得たい自分としてはいささか不快感を感じる。
<ネットと受験>
受験勉強がネットでできるようになったら困る教育関係者が出てくるという点についてはその心配はないように思われる。
確かにセンター試験に出される内容は限定されているから、現代政治等の知識問題ならば取れるであろう。しかし、数学となると話は別で、いくら知識を持っていてもそれを時間内に発揮できなければ意味が無い。センター数学は必要となる知識を知ってしまえば、後は時間と計算ミスとの戦いである。その練習をするのが授業であり、ネット学習となるとここが難しい。周りに人がいるプレッシャー、焦って計算ミスをするプレッシャー、それらに耐えうる精神力をつけるのも受験で大事なことの一つである。また、すでにネット上では受験勉強の方法や内容の公開がされてきているが、情報過多になっている分、どれが重要な情報であるかを選びとるのも大変であり、さらにネット上は受験勉強情報だけでなく様々な情報で溢れかえっているため、どうしてもそれだけに集中することが難しい。
習得において自分と合わない人が介在することにより途中で挫折する人間が居るというのであればそこまでであるし、受験で挫折するぐらいで社会に出てやっていけるはずもないとも考えられるが、そもそもそういう芽を摘むのもどうかと思うという考えは確かに同感できる。ネットと教育については、これから新たな分野として発展していくであろう。
例えば、受験勉強をゲーム化するには、問題集をゲーム化することが考えられる。教育に、模試の順位とは違ったゲーミフィケーションを与えることにより、楽しく覚えられるようなシステムが充実すれば、スパルタでやっている教育業界は淘汰されるはずである。そういったシステムには人間関係の煩わしさもない。
<電子書籍とインターネット>
電子書籍については昨今大きな流れが生まれている。「本か電子書籍か」なんていうバカげた質問も少なくなってきた。しかし、まだ出版社側には頭の硬い連中が多く、時代の流れに沿っていない様子が見受けられる。分かっていないのは出版業界だけでなく、法律家の類も電子書籍について大きな偏見を持っているようだ。そういった偏見はネットがどういった位置づけにあるのか把握できていないためにある。日本がやらないまでも、世界が始めたからには、いずれ遅れをとることは目に見えている。ネットの進歩jはすでに法の追いつかないところまで来てしまったのである。(3015文字)

2 件のコメント:

  1. 普段口語混じりの文体だったので、今回の記事は新鮮でした。

    返信削除
  2. 普段はエッセイ風にと意識して書いてます。。。

    この文体の方が良いのかな…

    返信削除